おすそわけ

タヒチの人々に教えてもらった大切なこと。広島の原爆の経験から教えてもらったこと。日々沢山のうれしい出会いの中で、見たこと聞いたこと、考えたこと。おすそわけ。

ヒバク証言を、消費してはいないか。

まずは、近況。

卒業論文提出まで残り10日となった今日、指導の先生に「かなり問題があります」と指摘され、

書き直しになりました。

泣きそうになりながら、書き直していますが、

「なんとかなるでしょ!」と、

好奇心の向くままに日々過ごしていたら、どうにもならない事態になってしまいました。

自業自得なので諦めて頑張るしかありません(笑)

 

先延ばし、先延ばしにしていると、論文というのは「間に合わない」もんなんだと、痛感しました。

反省。もう絶対繰り返したくない失敗であります。

 

「お前の熱意はそんなもんだったのか」「協力してくれたタヒチのみなさんに顔向けできるのか」

そう心の声が言っており、情けなくて、いなくなってしまいたい。

 

が、これが私なのだと、戒めながら受け入れながら、、、、。

 

さて。

 

書きながら思ったこと

書きながら思ったこと。そして前から思っていること。

 

ヒバク証言を、消費してはいないか。

 

ヒバク証言、広島では、あって当たり前のものとなっているでしょうか。

今まで、きかせて下さいと言って、お願いしてきいてきました。

ヒバクの話、きけばいろいろ感じます。

本当にさまざまなことを学びます。

もっと勉強したいと思い、もっともっととききたくなっていた時期もあります。

 

そのときに思いました。

ヒバク証言を、消費してはいないか。と。

 

わたしは、被爆者の話に「何か」を求めてはいまいかと。

自分の「何か」を満たすために、記憶をおこさせ、話させ、

満たされた私は、次へと向かってゆく。

たとえその「何か」が、勉強や反核活動であったとしても、

 

それでよいのか。

 

そう考えた時に、「若い人につないでいってほしいんよ」という想いにこたえることが、私が提供できる対価ではないかと思いました。

 

少々オーバーな言い方に聞こえるかもしれませんが、

ヒバクシャは、実験台として利用されてきました。

広島・長崎のまちや、ヒバクシャは、調査され、データをとられ、その結果のすべてが公表されているわけではありません。

はだしのゲンの漫画の中には、ヒバクしたことによって病気の症状が出た人に、

ABCCが「検体」として番号をつけていたという描写もありますが、

それがヒバクシャが感じてきたことを表していると思います。

 

ヒバクして、研究に使われる、と。

 

 

これが、繰り返されてはいないだろうか。

 

 

私は、繰り返してしまってはいないだろうか。

 

 

タヒチにインタビューに行き、ヒバクの話をたくさんきかせてもらいました。

重い口を開く人も、中にはいました。

その話を、きかせてくださいと言って、外国人のヨソモノの私は話をきく。

そして、自分の卒業論文を書く。

わたしの目的は達成される。

 

 

核は、大国によって開発され、先住民や、周縁に位置する人たちを犠牲にしながら開発が進められてきました。

おそらく、ヒバクに関する研究も、大国によって行われ、先住民や、周縁に位置する人たちから話を聞きながら、進展していきます。

「ヒバク」は、大国のためにずっと利用されていてよいのだろうか……。

 

 

そんなことを思います。

 

 

ずっと再生産、再搾取、再体験の繰り返しでは、同じことだと思う。

私は、きちんと対価を提供していきたい。

 

 

平和活動だと言って、ヒバク証言を聞く人たちは大勢いる。

 

その活動は本当に「平和」だと言えるのか、問い直し続けたい。

 

わたしも。みなさんも。

 

 

そんな思いを持っていますが、論文はまったく書けません。

口だけ達者で、かたちにならない私は、そうやってずっと奪い続ける「大国」の人間の一人なのかと。

「都合があって…」と言い訳をすることは簡単。このままではいけないと思っています。

 

手紙を書くということ

こんにちは。

卒論、書かないと…書かないと…と思っていたら、苦しくなりました。

そして、3日間寝込む風邪をひきました(笑)

体は正直です。(いえ、自己管理がなっていないだけですね。)

 

書かなければならない、しなくてはならない、ことをするのが

本当に苦手です。この上なく苦手です。

ですので、「やりたいこと」に変換するようにしてみました。

なんで今まで気づかなかったのか不思議ですが、ちょっとうまく気持ちの制御ができるようになりました。

 

「卒論=せねばならないこと」

ではなく、

タヒチまで行っていろんな人にお世話になった私は

「卒論=どうしても完成させたいもの」

だろうと。

指導まで受けながら、書かせてもらえる環境に感謝しながら、この3週間くらいもがいてみようと、いえ、もがきたいと、思いました。

 

その大きなきっかけがひとつ、手紙を書いたことです。

 

タヒチにお手紙を出しました

クリスマスカードをフランス語で書いて、お世話になった皆さんに送りました。

残念ながら住所を聞くことができなかった人たちにはメールでしたが…。

フランス語のできるお友達に協力してもらって、書き上げることができました。

 

郵便局に行くと、

ポリネシア……?ちょっと待ってくださいね」

「あ、いえ、正式名はフランス領ポリネシアかと…」

「え?なんて?正式名は??」

「フランス領……」

「あ~~フランスね!……ないねぇ……。どここれ……」

という具合で、しばらく待ちました。

遠い島へ手紙を出すって、こんなにワクワクするのかと、感動しました。

誰も知らない(知っていてほしいけど)小さな島に、大切な人たちがいるということが、誇らしくて嬉しくて仕方ありませんでした。

一方で、私の背負った責務のようなものを、いっそう大きく感じました。

 

私書箱に手紙を出す

タヒチ島にお手紙を出すときには、住所ではなく、郵便局の名前と、私書箱の番号を書きます。

インタビューをした時に、「住所をおしえてください」と言うと、

おじさまたちが「う~んなんだったかな…」と言って、奥さんを呼んでくるという光景が何回か見受けられました。

うちの父と母を見ているようで、少しおかしかったです(笑)

 

私書箱の番号がない人もいました。

番号がないのか、覚えていないのか、なくても届くのか…。

少し不安ですが、名前と、わかる限りの情報を書いて出しました。

 

中には、「○○郵便局から東に◎◎m」というような書き方もあって、

住所にもいろいろあるんだなぁとおもしろかったです。

 

ピスタチオの木はどこだ

住所がないので、インタビューできる人を探すのにも一苦労でした。

私が苦労したというよりも、滞在先のおじさんが、農作業の時間や自分の仕事の時間をつぶして人探しをしてくれて、お姉さんがトラックを運転して走り回ってくれたのですが。

 

人の名前が分かっても、どこに住んでいるのかを特定するのは、簡単なことではありません。

まず、その人の住んでいる村に行ってみる。

そこで出会った人に情報を求める。

簡単な地図や、より細かい情報をゲットして、またトラックを走らせる。

「ここから先に行ったところの大きな橋をわたってすぐ」

というようなものから

「ピスタチオの木を右に入る」

「タピオカ畑が見えたら…」

「大きなマンゴーの木を…」

というようなものまで、情報はさまざま。

 

とても時間と労力と手間とガソリン代のかかることで、私も何かできることがあるかと考えましたが、

私には木の名前もわからず、言葉も使えず、ただただトラックの真ん中に座っているしかなかったのでした。

申し訳なくて情けなくて、心臓がしぼんでしまいそうでした。

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↑関係ないですが、気に行っている写真をひとつ。植物がとても豊かです。

 

手紙を書くということ

そうして出会ったみなさんに、自分の字で手紙を書くということは、意味深いものがありました。

私はフランス語ができないので、訳してもらった言葉を一字一字間違えないように綴っていく。

言葉のひとつひとつの意味を確かめながら、ペンをすすめていく。

私の気持ちが届くのかどうかは、わかりませんでした。

私はいつも日本語で手紙を書くとき、語尾や語感で伝えようとしているのであり、言葉そのものよりも、雰囲気のほうが大きいのではないだろうかと気づきました。

うっかり綴りを間違えそうな、ひょっとすれば一行とばしてしまいそうな、おっかない書き方で出来上がった文面は、

一行がガタガタとずれていて、少々みっともないものばかりになってしまいました。

 

この、不慣れな手紙を、みなさんが受け取ってくれますように。

そして、今度は、きちんと書いた文章を持って、会いに行けますように。

 

文字を書きながら、一人一人との会話や、一人一人の顔が浮かんできて、

その時に頂いたお叱りや、アドバイスも蘇ってきて、

恥ずかしくていたたまれなくなったり、一緒に撮った写真にうるっとしてしまったり。

 

自分の手を動かして、自分の足を動かして、そうして触れるものたちが、愛おしい。

そうして心を寄せる人たちを、愛したい。

 

たとえ言葉がわからなくても

手紙を書くということが、豊かに記憶を蘇らせるのだなぁと。

私の気持ちもインクと一緒に染み入ってほしいなと思いました。

 

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パペーテタヒチ島の中心部)に一人で降り立った時に、不安で仕方がなくて海岸に座ってバナナをかじった。おじさんが「もってけ」と言ってたくさん袋に入れてくれた甘いバナナ。おいしかったなぁ。そのまま見上げた光景が美しくてパシャリ。バナナの皮は、そのまま木の陰にぽいっとコンポスト

 

 

と、いうわけで、

頑張って書かなければ…いえ、書きたいっ!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

Do not take from the land, if you can't give to the land.

今回は、記事でもなく、思っていることをダラダラと書き綴ってみたまでですので、

私の個人的な感情たっぷりてんこもりでございます。

書いてみた文章を、表に出してみたいと思った、ただそれだけの散文です。

積極的におすそわけはしません(笑)

「日記」に「鍵」をかけて公表していた高校生の頃を思い出しながら(笑)、綴ってみました。

 

明けましておめでとうございます。

2016年、今年も家族みんなで大晦日の夜を過ごすことができました。

おばあちゃんも、太郎くんも、天国で見守ってくれているかな。

いろんな出会いと別れがあった2015年でした。

出会いのほうが多かったけれど。

元には戻せない別れもたくさん経験しました。

大事な大事な1年の区切りなので、少し思っていることを言葉に。

 

駆け抜けていった2015年

思い返せば、本当に色々なことがありました。

必死に単位をとりまくった2月まで。

3年間力を注いだ活動への終止符と、たくさんの友達が卒業していった3月。

沖縄にも行きました。

メッセージ&フォトブック『No Nukes』の出版と、たくさんのイベントに全国を駆け巡った4月、5月。

はじめての大阪での演奏活動。

夏には、テレビや新聞にたくさんお世話になって、イベントもたくさんして、会いたかった尊敬する皆さんとご一緒することが叶いました。

8月は、いつものように広島にいることを噛みしめ、長崎にとって大切な日に長崎の土を踏むことも叶いました。

朗読劇でバイオリンも弾かせてもらいました。

人生初、「作品」をつくってギャラリーに展示しました。

そしてタヒチで過ごす1か月がありました。

大好きな友達とたくさん旅行をして、おいしいものを食べて、女性としての自分についても考えるようになりました。

バイトでもプライベートでも、英語で話すことが増えました。

お酒がおいしくなりました。

そしてあっという間に年末です。

年末、集まる人たちが愛しくて仕方ありません。

大好きな人たちに囲まれて、成長させてもらいました。

 

Giver と Taker

実は、タヒチから戻ってからは、のんびりと過ごしていました。

やることはたくさんあったのですが、手につかないほど、考え込んでしまう出来事がたくさんありました。

いい機会だったなと思います。

そのうちの一つは、タヒチで教わったことです。

 

タヒチでは、農家をしているおじさんの家に大変お世話になりました。

ステイ先のおじさんと、一緒に私のためにステイしてくれたお姉さんと、3人での生活でした。

2人は、私の研究にとても親身になって協力してくれました。

農作業の仕事の時間を、インタビューのための移動や通訳、私へのアドバイスのために使ってくれました。

体調がすぐれなくても、私のためにいろんな体験をさせてくれました。

一か月の滞在の間、本当にたくさんのことを教えてもらったんです。

そこで教わったひとつの言葉が、グっと心にすわっています。

 

Do not take from the land, if you can't give back to the land.

Do not take from someone, if you can't give back to him/her.

 

与えることができないのならば、奪ってはいけない。

この言葉について、少し思い出を書いてみます。

 

タヒチでの私は、ひどいものだった。

私は、タヒチで、人生で今まで経験したことのないくらい、人に迷惑をかけてきました。

自分が何をしたいのか。自分が何をお願いしていいものか。

遠慮してしまって、どうしたらいいかわからなくて、足踏みを続け、口をもごもごとさせる毎日でした。

言葉も満足に使うことができず、伝えたいことも伝えられず、

自分に何ができるのか、どのように毎日を過ごしていいものか、わからないことばかりでした。

 

ある日、言われてしまいました。

 

”You have two big problems. One, you are too naive. You are not critical at all. Two, you are not clear. I can't understand what you are doing.”

 

みんなの前で言われてしまって、今すぐ逃げ出したい気持ちになりました。

でも、自分が何もできていないことはわかっていた。言われて当たり前。

だけどどうしたらいいのかわからなかった。

わからないからって、何もしないでいいとは思えなかった。

何かしたい。落ち込んでいる時間はもったいない。

言葉でもなく、お金でもなく、ものでもなく、「私」が問われていました。

 

その問われた「私」は、結局何をすることもできずに、帰ってきてしまいました。

 

お世話になるとは、大変なことだ。

「自分が何をしたいのか」それを突きつけられることが苦手です。

だからいつも、「行ってみれば何かみつかる」という大きな甘えと、「ここにいれば何かがやってくる」という無責任な期待とに頼ってしまっていたのです。

その気持ちが、100%の準備につながらず、穴だらけの雑な装備になってしまう。

それが、突きつけられた「私」の大きな課題だったように思います。

 

私は、今まで実家で育ち、自分のことをすべて自分でしなくてもいい環境で育ってきた。

何をするにも、支えてくれる人がいて、道筋をつくってくれる人がいた。

大学だって、選んで決めたわけじゃない。大学しか選択肢を知らなかった。

大学でしてきた数々のことも、周りの流れに乗っかっていた。

与えられたものをそつなくこなし、与えられた中で少し自分流にすることで「自分でできた」と思いこんでいた。

でも、そんなに世の中は簡単ではなかった。

実は、何もないところで何かを作り上げることが、こんなにできないんだということに向き合わざるを得ませんでした。

 

落ち込んでしまった時、お姉さんに「お世話になるというのは、とても大きなことなんだよ」と教わりました。

「自分のことを自分でする。自分にできることを、自分にできるかたちでどんどんやってみる。」

そのうえで、

「お世話になります!よろしくお願いします!迷惑、かけさせてください!!」

といえばいいのだと。教えてもらいました。

 

教えてもらったからと言って、すぐにできるようになるものではありませんでした。

とても悔しくて、とても情けなくて、とてもとても不甲斐なくて、とてもとてもとても申し訳なくて、

タヒチから戻ってからは、タヒチでのあれこれを思い出すことを拒否していました(笑)

 

でもやっぱり、私はタヒチで暮らした日々が好き。

 

土と共に生きる。人と共に生きる。

おじさんの生活は、土と共にあるものでした。

朝起きて、豚に餌をあげにいく。

若者をトラックに乗せ、トラックにいっぱいの畑への栄養を積んで、畑へ行く。

午前中は畑で作業をし、お昼寝をして、収穫したものの加工をする。

 

友達が来ると、「これをもっていきなさい」と言って、今朝とれた作物を渡す。

売るはずだった作物も、うちに来た人たちに惜しみなく分け与える。

友達は、おじさんの大好きなビールやお酒、お魚を持ってうちに来る。

一緒にお酒を飲んで、いろんなことを話す。

 

たまにバイヤーがやってきて、収穫した野菜や果物を買っていく。

作物を売って手に入ったお金は、地元の農家さんがつくった、うちにない野菜を買うために使う。

道端のお店で500フランでトマトを買う。

その500フランは、きっとお店の彼らのご飯に変わる。

 

日曜日の朝は、市場に行って、パンやココナッツの加工品を買ってくる。

そして日曜日にしか食べないちょっとしたごちそうを作って食べる。

スーパーにはめったにいかない。

チーズとパテを買うときだけ。

 

ある日、パパイヤを剥くおじさんが、手を止めてお話してくれました。

「こうして生活していくことは本当に難しい。本当に大変だよ。だけど、これが"Quality of Life"だ。」

 

タヒチはフランスの事実上の植民地であり、タヒチの伝統的な農業と漁業を基本とした暮らしはだんだんと失われつつあります。

みんなスーパーで買い物をするし、農業や漁業の方法を知らない若者も増えているといいます。

その中で、土と生き、人と生き、自然と生きるおじさんの暮らしは、簡単なものじゃない。

だけど、とても豊かだと思った。

こうして暮らしていける人になろうと。

私にとっておじさんの生活は、憧れの生活から、目標とする生活になっていきました。

 

Quality of Life

先ほどのGiver とTakerの話に戻ります。

日本に帰ってから、お姉さんにまたひとつ教えてもらいました。

 

おじさんの言葉には続きがある。

"If you take and don't give back, you are a colonizer."

奪うばかりでお返しをしないのは、入植者のすることだ。

 

と。

 

体じゅう、頭じゅう、心じゅうに、電撃を受けた気持ちでした。

 

私が今までしてきたことは、taker だったのだろうか。colonizerなのだろうか。

たくさんのものを、たくさんの人から、たくさんの時間をかけてもらってきました。

ご厚意に甘えて、「ありがとうござます」と言って、なんでも受け取ってきた。

 

だけど、私は十分なお返しをしてきただろうか。と内省したとき、

答えはどう考えても「No」なのです。

taker であり、colonizerだっただろうと。

 

わたしが大学で興味を持って学んだ「平和でないもの」は、

こういう心が生み出しているのかと。

私自身が、他人から搾取する主体でありたくないと強く思いました。

 

恩返しをすることの重み

これまでのことも、タヒチでのことも、私は十分にgive backできていません。

give backするには、十分もなにもないかと思うのですが、

その場、その時だけがgive backするチャンスではないということも学びました。

これから先、お世話になった多くのみなさんに、お返しをしていくことを忘れたくありません。

今まで使っていた「恩返し」という言葉は、もうどこかへ薄まっていってしまいました。

今、私が「恩返し」に込めるものは、自分のどうしようもない失敗への反省と、おじさんとお姉さんが言葉を尽くして伝えてくれたgiverの精神です。

恩返しをいろんなところにしながら、土と共に、人と共に、暮らしていきたいと思います。

 

2016年に思うこと。

今年、私は大学を卒業します。

自分でお金を稼ぎ、自分で暮らしていく立場になります。

 

一般的な就職活動は、しませんでした。

ちょっぴりの不安と、どでかいわくわくがあります。

 

まず最初に卒論を書きあげて、そして韓国に研修に行ってきます。

そのあと、仕事がスタートです。

 

昨年1年通して学んだことを、しっかり世界にgive back、恩返ししながら、

若さを背負って、がむしゃらに夢を追いかけてみようと思います。

 

 

23歳になりました

タヒチとも広島とも全然関係ないのですが、幸せなことがありました♡

(幸せな気分もおすそわけ?)

 

12月8日、23歳の誕生日でした。

 

23歳って…!もう子どもじゃないんだ…!ってめちゃくちゃ思いました。

小学校の時に、「何歳で結婚したい?」の問にいつも「23歳」って答えてたなぁ。

 

おとといは、明日誕生日だ!って思ってたら、大好きな後輩たちがサプライズでふかふかのスリッパをくれました。

これで夜遅くまでお勉強してても足が寒くない♡

後輩たちの顔も思い出せて、心もあたたかい。なんて素敵。

 

 

きのうは、バイトして、授業受けて、打合せして、の通常通りの一日でした。

バイト先で「おめでとう」ばったりあった友達みんなが「おめでとう」

お菓子もたくさんもらいました。

変わらない一日を始めた途端に、出会う人たちが特別な一日をプレゼントしてくれました。

 

友達とごはんに行ったら、お店に入るまえにアイマスクをつけられました。

目を開けたら大好きな人たちがたくさん集まってお祝いしてくれました。

びっくりして、緊張してしまった!!

 

プレゼンともたくさんもらってしまいました。

だるまさんと、紅茶と、本と、スケジュール帳。

どれもこれも、毎日を彩る、私をつくる、最高のプレゼントでした。

嬉しい。。本当に嬉しい。

 

家に帰ると弟が、『領土問題と歴史認識』という本をくれました(笑)

 

今日は母がケーキを買ってきてくれました。

 

嬉しかった~~。こんなにお祝いしてもらって、本当に嬉しかった~。

Facebookを開いたら、たくさんのおめでとうが来ていました。

去年より、たくさんの国から届いていました。とってもとっても嬉しい。

 

なんて幸せなんだ。

誕生日が特別なのは、周りの人たちが特別にしてくれるからですね。

こんなにもらってしまったから、もっと頑張ろうっと!

頑張れと言われるより、頑張りたくなりました。

不思議な力ですね。

 

最近だれていて、毎日が腐りかけの牛乳のにおいがしそうな私でしたが、

シャンとしまして、夢いっぱい生きていかねばと。

 

23歳、大学を卒業します。

ぬるっと働いて、ぬるぬるっと着実に夢見て生きていきます。

 

もう一度タヒチに行くこと。

沖縄にステイすること。

土と仕事をすること。

 

叶えていこうと思います♡

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フランス語で自爆テロのことは”KAMIKAZE”という。

今日、フランス文明論の授業で、先生が教えてくれたこと。

フランス語で自爆テロのことは "Kamikaze" という。

 

気になって、タヒチの新聞記事を調べてみました。

↓↓↓

 

www.tahiti-infos.com

 

フランス語は読めないから記事の内容までわからないけれど、

確かに les kamikazesとなってる…。

Kamikazeは、神風で、特攻隊のことだよなぁ…。

 

そしてNew York Timesのこの記事にも”Kamikaze bomber”と出てくるんですね。

 

Who Were the Paris Attackers?

http://www.nytimes.com/reuters/2015/11/16/world/europe/16reuters-france-shooting-identities-factbox.html?_r=0

 

むむむっ。

 

自爆テロってこわい。

今回のパリでの事件が自爆テロだったことも含めて、自爆テロってなんか恐ろしいものだという感覚がある。

私にとっては、アメリカの9.11から「自爆テロ」という言葉は結構自分には縁遠いもののような気がしていました。

なんかよくわかんないけど、自分の体に爆弾くっつけて、飛び込んで周りの人たち巻き込んで……。みたいな。

自爆テロ…こわ…。と。

なんておっかないんだと思っていました。こわすぎる。

止められないしそんなのは狂気だとも感じていました。

今もそう思ってるかもしれない。

 

そして、テロって聞くと、中東が浮かんじゃうし、イスラムっていう言葉が浮かんじゃう。

「こわいな~」のイメージがそこにつながっちゃうのはとっても残念。

中東やイスラムがこわいのではないということを、いつも思ってはいます。

 

で、そういう「自爆テロ」のことをKAMIKAZEと呼ばれていると。

このモヤモヤを言葉にしてみようとしていますが、うまく行くかはわかりません(笑)

 

日本の特攻隊KAMIKAZEは、HERO?

自爆テロがKAMIKAZEと呼ばれていることを知って、

日本の特攻隊を私がどんなふうに教わってきたかを考えました。

私は、小学校の時に初めて特攻隊の話を聞いたのを覚えています。

お国のために、自分の体を使って戦った人たちは、なんて勇敢なんだと思いました。

私が聞いたのは美談でした。そう記憶してます。

 

そして、大ヒットしたこの映画も特攻隊を題材として、「壮大な愛の物語」として描かれるわけです。そして、「感動」するわけです。

www.youtube.com

 

特攻隊として出て行った人たちは若い男の子たちが多かったと聞きます。

一人一人にドラマがあり、過酷な戦況の中、お国のために死んでいった。

 

わたしもまだ勉強不足だけど、本当にみんな「勇敢」「英雄」でいいのかどうかは、疑問。

死ななくてもよかったんじゃないか…。とか。思っちゃう。

確かに感動する物語にはなるけど、感動していていいのか?とも思っちゃう。

 

だけど、私の中には特攻隊に対して、少なからずheroismのようなものを感じる何かがあるんです。

憧れとか、尊敬とか、同情もしているかもしれない。

 

そういう「神風」が「自爆テロ」と同じ意味で自然に使われていることを、私はどう受け止めたらいんだろう。

 

”KAMIKAZE”に日本を投影する

KAMIKAZEって言うってことは、そこには日本のことを投影しているんだと思います。

私が外国のニュースをみて「自爆テロ…こわ…」と思ったように、

KAMIKAZEと使う人たちには、

おそらく「自爆テロ…こわ…」の中に「日本の特攻隊…こわ…」のニュアンスがあるんだと思うんですよね。

日本っていう国が、どんなふうに外国から見られているか、わかっちゃう気がするんですよ。

特攻隊とかやっちゃう国。

狂気だ…と私が思った自爆テロのイメージを、日本にも持っているんじゃないかと。

 

KAMIKAZEなんて言葉を世界中で使われる言葉にしちゃった、というかそういうことを平気でやっちゃった日本って、

自爆テロ…こわ…」

とか言ってていいのか?!

いい気がしない。

 

テロリストも人間である。

前に、『Paradise now』という映画を見ました。これが予告かな?

www.youtube.com

パレスチナ難民キャンプの2人の青年が、イスラエル自爆テロに向かうという話。

2人の目線からみた「テロ」を描いています。

 

それと、もう1つ『21 Hours at Munich(テロリスト・黒い九月 ミュンヘン)』という映画も見ました。

www.youtube.com

You Tubeに全部あがってたけどいいのかな?笑、

Black septemberとも呼ばれている映画です。

ミュンヘンオリンピックでのテロを描いています。

 

この2つの映画を見てから、「自爆テロ…こわ…」ではなく、自爆テロする人たちの目線に立つことにトライするようになったんですよね。

彼らにも生活があっただろうな。いつもどんなもの食べてたのかな。

お母さんやお父さんはどんな気持ちかな。

何より、彼らの気持ちはどうだったかな…と。

死ぬのが怖くないわけ、ないだろうな…とかも。

 

テロリストも、人間だと思うことって大事じゃないかと思うんです。

自分がテロリストになるかもしれない。

友達がテロリストになるかもしれない。

テロで被害にあったことがないから、私はこういうことを言えるのかもしれないけど、

そういう「テロリスト」に目線を変えることって、不可能ではないと思うんです。

 

テロリストも人間である。を一番わかっているのは日本人では?

で、ここで、テロリストについて考えていた自分のことをふりかえってみる。

テロリストって言うから、全然結びつかなかったけど、結局、特攻隊を考えることとテロを考えることは、一緒じゃないかな。

 

テロの定義もあんまりはっきりとはわからないので、曖昧な話だけど、

「自分で爆弾持って突っ込んでいって、自分も一緒に死ぬ」

という行為は、KAMIKAZEを実行していた歴史を持つ日本にとっては、

そう縁遠いものではないですよね。

 

だって、KAMIKAZEに行って死んでいった人たちに思いを馳せるし、

彼らに人生があったことも知っているし、

「お国のために」と思っていた、なんてことも知っているわけでしょ。

感情移入しちゃったり、共感したり、尊敬したりするし、英雄だと思える節があるでしょ。

 

それをそのまま「自爆テロ」にあてはめること、できますよね。

『Paradise now』にも "We will take care of everything here and commemorate your heroism."という言葉が出てきますが、

きれいな軍服を着て、万歳を浴びながら飛び立っていった特攻隊と重なる部分がある気がします。

 

「テロは脅威だ」でいいのか?

”KAMIKAZE"の発祥地である日本は、テロは脅威、それだけで世界を見ていていいのでしょうか。

そういう疑問がわいてきます。

 

日本の安保法案もテロ対策という側面がありますよね。

フランスも、テロに対抗してシリアを爆撃しました。

アメリカも、テロに報復して戦争を始めました。

 

その「テロ」、「テロ」のまんまでいいのでしょうか。

「KAMIKAZE」を考えて、そんなモヤモヤを感じています。

 

この記事、テロの定義もよくわからないし、テロと自爆テロをおんなじにして書いているので、

しっかり勉強している人たちにたくさん教えて頂きたいところですが、

 

自爆テロがKAMIKAZEと報道されていることを、日本人の私として、大きく受け止めているのです。

 

みなさんどう思いますか?

 

 

 

 

 

 

タヒチの生活~ある日の日記

こんにちは。

パリでとても大変なことがありましたね。

私が行っていたのがフランス領だったからなのか、

フランスでの事件もかなり身近に感じられるようになりました。

タヒチの友達たちも、Facebookのプロフィールをトリコロールカラーに染めていました。

気持ちを表現できるツールが身近にあるって、いいですね。

 

フランスで被害に合われた方々に思いを送ります。

彼らは、その場にいただけで、犠牲になった人たちではないかと思います。

同じように犠牲になり続けているいろんな国のいろんな人たちへも、

同じくらい大きな思いを送りたい。

そして、これからも犠牲になる人たちが出ることでしょう。

一人も悲しまないことを願いたい。一人でも犠牲になる人が少なくなるように。

そういう世界にするのは、私でありあなたであると。

そう信じて、学生の私は一生懸命勉強します。

 

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今日は私が感じたタヒチでのことを書こうかなと思っていたところ、

タヒチについてから一週間経った日の日記を見つけました。

Facebookにもシェアしていたのですが、こちらにも紹介します♩

↓↓

タヒチに来て一週間が経ちました。

チリの地震での津波の影響はありません。

(※チリで大きな地震があり、大きな津波が起きる可能性があるという報道が日本であったことを知りました。が、こちらではあまり大きなニュースにはなっていませんでした)

今は、首都パペーテのFoyerという寮に泊まっています。
寮にきてから5日目、1階でなぜかwi-fiをキャッチできることがわかったので投稿しています。

 

こちらに来て、日本での準備不足を痛感しています。

フランス語が話せないと話にならない!(笑)

明日は議会に行ってみようと思いますが、どうなることやらわからない…!

私の英語も上手ではないので、意思の疎通がうまくできない。

帰ったら猛烈にフランス語と英語を勉強して、また帰ってこようと燃えています。

 

なんとなく、わたしが過ごしていて感じていることを、書き留めていこうと思います。

 

タヒチの時間

タヒチは、早寝早起きです。

朝は7時くらいからいろんなことが始まって、

夕方は15時~17時くらいにはいろんなことが終わります。

金曜日はもうちょっとはやい。

わたしが滞在してるオフィスは、14時半に終わる。

仕事中も、仲良しで集まっておやつ食べたり買い物に行っちゃうところが、素敵です。

土曜日の午後から日曜日は、ほとんどのものがお休み。

バスもない。

(日曜日の朝7時前から銀行のATMが使えたのはびっくりしたけど…!)

 

日曜日は「おやすみ!」という感じなので、何ができるわけでもなく、

今朝は4時からスタートするマルシェに行き、日曜日の教会の礼拝に参加して、

寮でインタビューの書きおこし。

時間の流れがとてもゆったりです。 

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パペーテの港の景色。人々がランニングを楽しんでいました。

 

▼オープンな人々

それと、こちらでは、人のあたたかさに何度も助けられています。

私はフランス語もタヒチ語もできないのに、「Nao~~」と言ってキスをしてくれます。

キッチンの使い方が分からなくても、全部教えてくれるし、

英語を使って話しかけてくれるし、一緒にスーパーに行ってくれます。

そして、いろんな話をしてくれます。

(ごめんね~、わたしフランス語できないからあんまりわかないんだ…!と心の中で思いながら。)

でも、わかるもんはわかるもんですね。

道を歩いていても、何やらフランス語で話しかけてくれます。

あぁ悔しい!!!

けど、「Nao~~」が聞こえる度に、言葉がつかえないさみしさもどこかへ吹っ飛んでしまいます。

 

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 ↑寮でさみしくなって沈んでいたら、開いたドアの隙間から、猫が入ってきました笑。猫まで優しい。

 

▼先週のビッグニュース

www.tahiti-infos.com

私の理解もおおざっぱですが、先週、ボラボラ島で一人の男性が亡くなったそうです。

34歳のsandyさんは、12歳の娘さんがいるのだけど、

ボラボラ島で喧嘩に巻き込まれて、殴られて亡くなったのだとか。

(ちょっとわたしの理解が正しいのか怪しいですが

とても痛ましい事件だったと。

毎日テレビでも新聞でも報道されました。

土曜日の午後、パペーテの大通りが、白い服を着た人たちでいっぱいになりました。

みんなが大きな行列をつくって、市内の議会のそばの広場に集います。

なんだろうと思っていると、友達が一緒に行こうというのでついていってみました。

聞くところによると、Sandyさんを悼み、

暴力はよくないんだということを確かめ合うために集まるんだと。

 

Sandyさんをみんなが知っているわけではないし、

ボラボラ島はここからは離れている島ですが、

土曜日の午後、本当にたくさんの人が街から白い服を着て集まってきました。

広場では、" Je Sui SANDY" (I am Sandy)というステッカーや、

" STOP la VIOLENCE" というプラカードがどこからともなく出てきて、

設けられたステージで話すSandyさんの親族の声に皆で耳を傾けました。

時に歌ったり、音楽を聞いたり。

広場に集まった人たちは、まわりに友達を見つけて挨拶することも楽しんでいました。

そのうちに、お菓子を売る人たちも出てきました。

「誰かを嫌うとか、暴力を振るうとかじゃなくて、みんなでunitedしていきましょう」

そんな集会でした。 

 

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 ↑部屋から見えた人の列

 

Sandyさんが有名なわけではないけれど、みんなが共感して、集まってくる。

いいなぁと思いました。

 

タヒチは蚊が多い

めちゃくちゃ多い。

そして、デカイ。

この投稿を書いている間にも、何か所も刺されて、痒い。

バドミントンのラケットみたいなやつの、

網の部分に電流が流れる道具をみんな持っています。

今も前に座っている女性はぶんぶんと振り回して

「バチバチ」と蚊がヒットされているのが聞こえます(笑)

 

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 ↑mosquito racket と呼んでいました。

 

このくらいにします

わたしは、核実験がどんなふうに記憶されているのかとか、

核実験を経験した人たちが、どんなふうに核実験を考えているのかを知りたくて

タヒチに来ました。

そういうことを考えながら過ごしているのですが、

日々この国の人たちと暮らしていると、タヒチの空気に包まれていることを強く感じます。

 

本当にあたたかい。

本当にあたたかいです。

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『タヒチ』ってどこ?!

タヒチってどこ?!

「あんた先月どこいってたの」

タヒチ~!」

タヒチってどこ?!」

 

わかります、その気持ち。

 

タヒチは、ここにあります。

 

 太平洋の真ん中~~!

「ハイチ」じゃないよ、「タヒチ」だよ。

ハイチとタヒチは全然違います。

 

タヒチ」「タヒチ」って言っているけど、「タヒチ」は国の名前じゃありません。

正確には「タヒチ島」で、島の名前です。

じゃあ国名はなんなんだ、というと、おそらく「フランス」です。

タヒチ島は、「フランス領ポリネシア」という、フランスの海外領土の一部です。

タヒチ島だけじゃなくて、たーーーくさんの島を集めて「フランス領ポリネシア」と言っています。

 

ここでは、紛らわしくなってしまうので、フランス領ポリネシアのたくさんの島々のことを「タヒチ」、タヒチ島のことは「タヒチ島」と呼ぶことにしましょう。

どうやって行くのか

日本からは、週に何便か、直通でタヒチ島の空港「ファアア空港」まで行ける飛行機が出ています。

ほとんどの日本人観光客は、その便で行くんじゃないでしょうか。

でも往復で、うん十万円します。

私はそんな高い飛行機には乗れないので、4分1の値段の飛行機で行きました。

成田⇒香港⇒オークランド⇒ファアア

全部で30時間くらいかかります。

どこかのタイミングで翌日の飛行機になってしまうため、成田で一気にチェックインができません。

オークランドで入国と出国をし、チェックインしなおし、預けた荷物の手続きをしなおします。

これは本当に疲れた…。

はじめて一人のフライトだったので、爆笑ハプニングもたくさんあるのですが、その話はまた今度。

 

「楽園」

ところで、たぶん、みんなが「タヒチ」をよく覚えている理由は、

タヒチがハネムーンの旅行先の人気がとっても高いからでしょう♡

ボラボラ島とか、聞いたこと、ないですか?

タヒチといえば、こんなのを想像する人も多いんじゃないでしょうか。

http://www.oceanmate.co.jp/images/tahiti/tahiti_image.jpg

 

はぁ~~♡♡きれい。

旦那さんと行きたい。

 

青い空。きれいな海。(本当にきれい。私の語彙では言い表せない。)

穏やかな気候。あたたかい人々。優雅な時間。

きっとそんな「楽園」を求めて、たくさんの観光客がタヒチにやってくるんだと思います。

 

おみやげのクッキーにも、観光パンフレットにも、「楽園」「paradise」がいっぱい。

 

素敵なところタヒチ。地球最後の楽園タヒチ

 

誰にとっての「楽園」なんでしょうか??

住んでいる人にも、「楽園」でしょうか?

 

私がタヒチに行ったわけ①

私は、去年地球一周する船に乗っていたときに、タヒチに行きました。

「パパラギ」っていう本に私は強く影響されていて、タヒチに行くのを本当に楽しみにしていました。(パパラギぜひ読んでください)

船の中では、タヒチ島に住んでいるおじさんが、ポリネシアの歴史や伝統的な暮らしについてレクチャーをしてくれていて、すっかりタヒチに憧れていたんです。

そこで、そのおじさんに無理を言ってお願いをして、おうちにお世話になることにしました。

タヒチの暮らしと農業に触れたい。これが私がタヒチに行ったひとつめの理由。

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*1

 

わたしがタヒチに行ったわけ②

もうひとつ、大事な理由があります。

みなさんは、タヒチで核実験が行われていたことを知っていますか?

 

http://tahiti-helicopters.com/wp-content/uploads/2014/12/tahiti_01.jpg

 

こんなきれいな海の、そう遠くないところで、

 

 

http://atlanticsentinel.com/wp-content/uploads/2013/04/French-nuclear-weapons-test.jpg

 

こんなことが起きていたんです。

 

ちょっとカタイ言葉が続きますが、

フランスは、1966年から1996年までの30年の間、193回の核実験を、仏領ポリネシアで行いました。

そのうちの46回は、大気圏実験と言って、空中にどかーん!と爆発させるものです。

たくさんの放射性物質が、周辺の島々まで到達したという報告もあります。

 

この実験があったのは、フランス領ポリネシアの中の、モルロア環礁とファンガタウファ環礁というふたつの環礁です。

(環礁というのはサンゴ礁でできた、わっかになった島のことです。内側がラグーンになっていることが多いです。)

タヒチの主な都市のあるタヒチ島からは、1200kmほど離れているのですが、当時はたくさんのタヒチ人の労働者が核実験場で働いていました。

そのことが原因で被爆し、健康状態がすぐれない人や、家族や子どもにも悪影響が及んでしまった人たちがたくさんいます。

 

私は、このフランス領ポリネシアでの核実験について卒業研究をするために、タヒチに行きました。

『調査』というには恥ずかしいほどの、未熟な状態でして、現地で協力してくれたみなさんに、どうしようもないほど迷惑をかけてしまったのですが…その大失敗の話はまた後日。お世話になった皆さんには感謝してもしきれません。私の力ではなく、現地で助けてくださった皆様の力が絶大であることを添えておきます。

核実験があった間に、核実験場で働いていた人たちを探し、インタビューをしていました。

 

卒論のレベルで海外まで調査行かなくても…と何度も言われたのですが、

私は文字を読むのは好きではないし、検索して出てきた文字たちを読んでいても、なんのこっちゃよくわからなかったんですね(笑)

それで、やっぱりいつものように「行ってみる」ことにしたんです。

 

 

ちょっと余談なのですが、

私の通っていた高校は、修学旅行がありませんでした。

そのかわり「研修旅行」がありました。10こくらいのコースから、自分でひとつ選んで「研修」に行くんです。

そのうちの一つが、マーシャル諸島でした。

たしか、「21世紀の縮図を見る」みたいなサブタイトル。

そのコースの説明会で、担当の先生が言った言葉が、ずっと忘れられないんです。

 

「写真やテレビでは、きれいな景色を見ることができます。

でも、「におい」っていうのは行ってみないとわからないんですね。」

 

なんて素敵なことを言う先生なんだと思いました。

その言葉に魅了されて、私はマーシャル諸島にも行ったし、いつも「におい」を覚えるようになったんです。

以上余談でした。

 

話は戻って、

そう、私は「行ってみた」んです。

実際に核実験に関わっていた人たちに、当時の様子を聞きました。

きちんと話ができたのは10人くらいだけど、1時間も2時間も使って、たくさんのことを話してくださいました。

目の前にいる、その人の人生の話。

その中に「核実験」があることを、強く強く感じました。

行って本当によかったです。

 

そろそろ終わりにする前にひとつだけ。

タヒチでの暮らしは、素晴らしいものでした。

また、詳しく書こうと思います。

 

ひとつ、とても心に残っていることを挙げるとすれば、

日曜日のマルシェの話。

 

日曜日、タヒチではいろんなところでマルシェが開かれます。

お魚とか野菜とか、お花とか果物とかお肉とか、とにかくいろんなものが並びます。

朝5時からスタートして、なくなったらおしまいです。

ある日、マルシェに連れて行ってあげるよ、とおじさんが言ってくれたので、4時半に起きて外に出ました。

まだ日がのぼっていない東の空をみていると、だんだん空が赤くなってきます。

本当にきれいな朝日でした。

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そして、空が明るくなるにつれて、周りから声が聞こえてくるんです。

チュンチュンという鳥の声、大きくなってきたなと思ったら、

鶏がこけこっこー。

車の走る音が大きくなり、人の声が聞こえます。

犬が歩きだし、鶏とひよっこたちのお散歩が始まります。

そしておじさんが「おはよう」。

 

なんて美しい朝なんだ。

ガイドブックに書いてある「タヒチの人は早起きです」

「早起き」なんて言葉、なんてチープなんだと思いました。

朝、太陽がのぼる。生き物が動き出す。

とてもシンプルだけど、とても美しい朝でした。

 

あ~~思い出したら胸がどきどきする。

 

今日はこの辺にしておきます。

次は何を書こうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:こんな自然があるんですよ。畑仕事もお手伝いさせてもらいました。